この世は目に見える世界です。あの世は目には見えない世界です。
この世はモノの世界です。あの世はこころの世界です。物質の世界と精神の世界の違いです。

この世にあって、あの世にないものはいったい何でしょう。
この世にあってあの世にないものとは、財産、地位、学歴、経歴、肩書、お金や衣食住などモノのすべて、そして世間からの称賛や評価などです。つまり、人間がこの世に生きている間、血まなこになって得ようとするものすべてです。自分から外へ向けて欲するもの、この世に生きている間にしか身に付けていることができないもののすべてです。
この世での幸せとは、これらのモノをできるだけ多く手に入れることだと、多くの人は信じています。本当にそうでしょうか。

では、あの世にあってこの世にないものはなんでしょうか。
あの世にはモノはありません。あるのは、こころだけです。
こころなら、この世にもちゃんとあるはずです。私たち人間が生きているかぎり、こころはそこにあるのです。
その、こころには、重いこころと軽いこころがあります。
こころが重くなるのはモノにとらわれているときです。世間の評価にとらわれ、他人の目が気になるときです。
こころが軽くなるのはモノから思いを離したときです。世間の評価から思いを離し、他人の目が気にならなくなったときです。
自分からうちに向けて求めるものがこころです。こころは得るものではなく、自分自身の手で磨くものです。磨きあげるものです。

モノは得るものです。求めるものです。奪うものです。身につけるものです。この世のものです。
こころは与えるものです。磨くものです。高めるものです。こころはこの世にもあの世にもあります。
あの世では与えることだけです。与えることしかありません。
さて、私たちはやがてこの世を去って、あの世に入ったとき、その与えることをしていくのです。
そのあの世での入り口で、すなわちこの世での最後の最後に、私たち人間は人生最後で最大の試練を受けるようになっています。この試練は、みんなに平等におとずれます。

この世での最後の試練は、与えることです。手放すことです。
たいていの人は、死ぬときは何も持って行けないと口では言っていますが、本当にこころの底からその意味が分かっているでしょうか。
私たちは、いま身につけているものすべてを、ひとつ残らず、惜しみなく与えることができるでしょうか。
全部、私たちが自分で汗を流して集めたものです。苦労して身につけたものです。それをそっくりそのまま、しかも惜しみなく与えることができるか、というたった一つの設問の試験です。

どうしても与えることができないと思えば思うほど、苦悩するでしょう。どうしても与えなければならないことが、私たちにはよく分かっているからです。
分かっているのに、そうできないことが、悩みというものの正体です。

HMU 達弥西心